第32回郷土史展「東広島の明治維新」
~志和に結成された神機隊と広島藩の隠れ城八条原城~
本陣:西蓮寺を戊辰戦争に出発する神機隊士の図 東広島郷土史研究会作成 |
主催:東広島郷土史研究会
於:東広島市民ギャラリー
フジグラン東広島店2F MAP
期間:平成23年(2011)9月27日(火)~10月2日(日)
休館日:月曜日は入れ替えのため休館となっています。
時間:10時~ 18時 最終日の日曜は17時まで
入場料:無料
神機隊本陣跡 西蓮寺 |
西蓮寺にある神機隊士の墓 |
当日、もっと詳しいことを聞きたい知りたいという希望が多く寄せられ、急遽追加企画を開催することになりました。 歩く会の様子をご覧ください
第27回ひがし広島の史跡・文化財を歩く会 |
神機隊は東広島市志和町西志和の西蓮寺に本陣を置き、その後戊辰戦争出兵し福島県直江地区などで活躍したが、官軍の先鋒隊であったがゆえ激戦と成り300名のうち半数が死傷した。その後、八条原城も東広島市志和町へ築城が進む。江戸幕府は一国一城を定めていたので、あくまで表向きは藩士の学問、修練の場としての文武塾を作ったが、藩主別邸や政治堂、さらに当時志和全体での米の取れ高8千石を納めることができる米蔵までも建てられており、建築当時から志和盆地への交通の要衝には、神機隊士を配し厳重に警戒した。
幕末当時、全国には官軍、幕府軍よりの諸隊とよばれた長州の奇兵隊や幕府側の彰義隊や会津の白虎隊など、正規軍ではない約300隊余りの農民など(神官や女性だけの部隊もあった)の募集であつまった隊が存在していた。広島藩も15隊あった(分隊や合併などある)。
戊辰戦争で戦った第一部隊隊士や遺族には、生涯二人扶持と苗字帯刀の恩典があたえられるのだが、その後の廃藩置県で何もなくなっている。
【神機隊と逸話】
官軍が、相馬藩領小高に入り藩の米倉を押収し各隊に分配した、それが領民のための救荒米だと分かった時、神機隊だけが無償で返還をしている。
また44名の犠牲者を出した広野の戦いの直後の進撃中、火傷を負った幼児を守って只一人家に残っていた農家の嫁を見てこれを励まし、その家の真宗風の仏壇を見て恭しく拝礼し、銭を供えていった兵士もいた(福島県大熊町公民館発行「民話シリーズ」第二号)
八条原城本丸絵図 |
八条原城跡の石碑 |
八条原城本丸を解説した 神機隊士に扮した解説員 |
本丸周囲にめぐらされたい石塁 |
志和地区全体から集められたといわれている。
草原と右の林一帯が八条原城 |
4 件のコメント:
はじめまして、偶然、「戊辰掃苔録」の掲示板への書き込み(神機隊のお墓に関するもの)を読み、投稿しました。
この度、神機隊のお墓のあるお寺のブログを開設しましたので、参考までにお知らせします。
(アドレス)
http://hironoshugyoin.blog.fc2.com/
書き込みをありがとうございます。
一日でも早く、復興されることを
心よりお祈り申し上げます。
東広島郷土史研究会のメンバーが
広野を訪問の際に撮影した写真をみて
とても広々とした美しい土地だなという
印象があります。
今回の郷土史展では、福島各地での神機隊士の
墓を守ってくださっている寺院の消息もいただきましたので、判明している限り合わせて
報告させていただきます。
コメントをありがとうございました。
当ブログにて、今回の郷土史展の
ご案内をさせて頂きました。
今後とも宜しくお願い致します。
東広島ファン倶楽部 ブログ主さま、初めまして。
東日本大震災の際には、義援ご支援等、大変お世話になりました事、お礼
申し上げます。
実は、有る事で東広島の方とは懇意にさせていただいております。
東広島にも5年ほど前に伺わせていただきました。
ブログから初めて知りました。
【神機隊と逸話】
~官軍が、相馬藩領小高に入り藩の米倉を押収し各隊に分配した、それが
領民のための救荒米だと分かった時、神機隊だけが無償で返還をしている。~
ご紹介下さり有難うございます。心打たれるお話です。
ブログ記事の
【また44名の犠牲者を出した広野の戦いの直後の進撃中、火傷を負った
幼児を守って只一人、家に残っていた農家の嫁を見てこれを励まし、
その家の真宗風の仏壇を見て恭しく拝礼し、銭を供えていった兵士もいた
(福島県大熊町公民館発行「民話シリーズ」第二号)」】
については下記の通りです。ご紹介いたします。
福島県双葉郡「大熊町公民館の発行した『民話・野がみの里』の第二十一話「戊辰戦争余話」
『野上には相馬兵が守っていた。これを攻めようと官軍は熊町を朝早く出て
大和久から野上に向かった。あたりは荒れた原野、その中に三軒の農家があった。
その真ん中に「ナカ」という若いお嫁さんがいた。
慶応4年7月28日、ナカは誕生すぎたばかりの初五郎を遊ばせながら
アンを作っていた。
なべを下ろして仕事をしているうち、初五郎はアンのなべに転んでしまった。
子どもの泣き声にびっくりしたナカはいそいで着物をぬがせて水で洗ってやったが、
子どもの泣き声はやまなかった。
この時、官軍が野上に来るとうわさが伝わった。
人々は荷物をまとめて後ろの山へかくれることになった。
ナカは夫の精助に言った。
「オラナー、みんなに迷惑かけるからここにいる。
官軍だって鬼でもあんめえ」
「バカ、若い女がいてみろ、あの鬼たち何しっかわかんねえ。」
「だめだめ、オラ―とこにゃ、アミダさまもござらっしゃる」
とナカは動かず、一睡もしないで子どもの手当てをした。
翌29日朝、大和久の方に鉄砲の音が聞こえた。
ナカは一心に念仏をとなえた。
アミダさまが守って下さるにちがいない。
そのうち兵士達は家の後ろの道をドタドタと通った。
そして2・3人が井戸で水を飲んだ。
1人がナカに気づいて声をかけた。
「オイ女、なぜ逃げぬ。」
「子どもが大やけどして泣くんで。」
「お前偉いナ、子ども看るために残ったのか。」
「ハイ」
仏壇を見てその兵士は言った。
「お前の家は一向宗(浄土真宗)か。
おれもそうだ。久しぶりだ。拝ませてくれ。」
彼はよごれた両手を合わせて念仏をくりかえした。
「もう兵隊もいった。心配するな。
おれも遅れると隊長に叱られる。
子どもを大事にしてあげな。
戦争が終わったらおれも広島に帰る。
では元気でな。」
ナカは涙が出てとまらなかった。これが鬼の官軍だろうか。
いやアミダさまの身代わりではなかろうか。
ナカは後で知った。
安芸門徒といって広島の人は非常に信心深いということを』
(原文「大熊町公民館発行「民話・野がみの里」
参考文献p63~65一部省略」)
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