「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐レポート3
レポート1:柿本人麻呂編 レポート2:雪舟庭園萬福寺編
萬福寺を出て、さらに医光寺へと向かいます。
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医光寺 総門 |
歩いて、医光寺へ到着すると、凄く時代のある門が建っているやたら高い門だ、聞くと川向の七尾城の大手門だったという。つまり騎乗のまま門をくぐれると言うこと。
さらにやたら城門にしては、艶っぽい、あの琉球の守礼の門を思い出す。建てられたのち、改装されて今の二段の屋根にしたそうで、「竜宮造り」という「唐門」とも云われる。17世紀後半のことだ。社寺にはよくある形だ。
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医光寺総門から中門・本堂を見る |
医光寺は臨済宗東福寺派のお寺ですが、もとは天台宗崇観寺の塔頭でした。崇観寺は1363年に創建され、足利将軍の台翰(だいかん・手紙)をもって住職を任命したほどの格式のある大伽藍でした。
文明年間(1469~1486)第七代住職雪舟はこの崇観寺の塔頭のひとつに庭園を残しました。その後、崇観寺は衰退していったのですが、17代益田宗兼によって医光寺が開基しました。医光寺の雪舟庭園は国史蹟および名勝に指定されており、 池泉鑑賞半回遊式の庭園で、鶴池に亀島を配置した吉祥の庭となっています。
開山堂の十六羅漢像は17世南嶺和尚による赤松の一本彫りで、それぞれの羅漢の生き生きとした表情は素晴らしい出来ばえです。本尊の薬師如来像は、鎌倉期の「安阿弥」作と伝えられ、 脇侍の日光、月光菩薩もよく均整がとれ、金箔の上に繊細な色彩がつけられています。
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医光寺総門を見上げる、実に肉太な城門で
木材の枯れ具合が実に時代を窺わせる。 |
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医光寺 総門のところで記念写真を撮影した |
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さて、医光寺へ |
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医光寺境内の案内図 |
医光寺の境内の案内があったので紹介、雪舟の庭園は本堂の裏のようだ。
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県指定文化財
医光寺総門 旧益田七尾城大手門
益田市染羽町4-29 0856-22-1668
開館時間 8時30分~17時 休館日 無休 |
島根県指定文化財
医光寺総門
指定昭和三十四年九月一日
高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
この門は、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、益田氏二十代元祥の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。
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向こうが七尾城跡 |
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾木戸」で三隅方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成四年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
平成二十年三月
益田市教育委員会
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総門をくぐり、中門へと階段を上がります |
この中門もなかなかのもので、この医光寺の格式の高さをよくあらわしています。
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医光寺 本堂 |
中門をくぐると正面が本堂、左側に開山堂が見えます。
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医光寺 開山堂 |
ここでちょっと中門を振り返る、瓦に堂々たる菊の御紋が見えます。
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屋根瓦には菊花紋が記され |
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門扉の飾りには菊と桐の紋がありました |
臨済宗東福寺派。
本尊 薬師如来像。
天台宗崇観寺(すうかんじ)の後身。
崇観寺は医光寺の西方にあった古刹で、開山は東福寺の法系、竜門士源(りゅうもんしげん)で聖一国師の法系士顔の嫡子。
貞治2年(1363)斎藤長者の妻、法名直山妙超大姉の本願によって創建され、益田兼弘の保護と援助を受けて栄えました。
寺領は1,500石。
南北朝時代、益田兼見(ますだかねはる)は当寺を尊崇し、「祥兼置文」(よしかねおぶみ)に、崇観寺、万福寺など領内の小庵に至まで退転ないようにと命じています。
その後、勝剛長柔(しょうごうちょうじゅう)の入山、画僧雪舟等楊の来山により繁栄しましたが、益田宗兼(ますだむねかね)が医光寺を現在地に建立し保護を加えましたことから、崇観寺は衰退の一途をたどり、さらに寺堂の焼失によって医光寺と合併しました。
寺領30石。その後、内容・外観ともに整備されましたが、享保14年(1729)大火で延焼。まもなく再建されて今日に至る。
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チェンソー1本で切り出された
雪舟、ネズミがかわいい |
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医光寺 雪舟庭園
国史蹟及び名勝 |
医光寺の裏山を利用した西南向きの池泉鑑賞半回遊式の庭園。
雪舟が文明10年ごろ来山し、造園した鶴亀を主体とした武家様式で鶴をかたどった池の中に亀島を浮かべています。
亀の背中には中心石と三尊石をおき、西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を作って、東の枝垂桜(しだれざくら)とバランスをとっています。(写真中央が亀島)
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雪舟 灰塚 |
画聖 雪舟(小田等楊)は益田の地において、遂に永正3年(1506)8月8日、87歳。東光寺(現在の大喜庵)で、その一生を終わりました。
医光寺伝によると、寺格において東光寺よりも崇観寺(すうかんじ)【現在の医光寺】が一段と高いので、この地で火葬にふし、記念碑を遺したと伝えられ、これを世に、雪舟の灰塚と称しています。
碑面には「前東福見崇観後東光雪舟楊大禅師」とあります。雪舟が、かつて京都の東福寺にて修行した後に、崇観寺と経て、東光寺を訪れ、生涯を終えたことを意味しています。
詳しくは次の解説をご覧ください。
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雪舟灰塚の由来 |
続いて、帰路にある雪舟山水郷にバスで向かいます、住宅地の中の行き止まりのところに、小高い丘、大貴庵のところにある、雪舟の生涯を学ぶことが出来る処です。
雪舟の郷記念館
雪舟山水郷の核として雪舟終焉の地に隣接しており、中国の天童寺を模した茶色の瓦葺きが落ち着いた景観となっています。周囲には雪舟死没の地といわれる大喜庵や小丸山古墳を望むことができます。雪舟が描いた数少ない人物画の一つ「益田兼堯図」(国絵画文化財)を、平成元年ふるさと創生資金1億円で益田家より購入し所蔵しています。益田兼堯とは、十五代益田家当主で、雪舟を当地へ招いた人物です。
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雪舟の郷(さと) |
郷の入口にある雪舟の郷記念館です。寺院をイメージするデザインの落ち着いた建物です。
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雪舟の郷 記念館
〒698-0003
島根県益田市乙吉町イ1149
TEL (0856)24-0500 |
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八景園 花鳥図屏風をヒントに造園された
益田八景の名勝地がちりばめられている |
記念館の背後にある建物が大喜庵です
大喜庵(東光寺)
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大喜庵(東光寺)
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雪舟が最晩年をすごした東光寺跡。雪舟の廟がある。自分自身戴いたパンフレットや事前の学習が足らず、肝心のポイントをスルーしてしまったことが残念でなりません。
雪舟廟
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雪舟廟 |
台石二段の上に扉のある高さ16㎝の石室がおかれている。内部には旧墓の相輪が納められている。
雪舟の墓は、東光寺の荒廃とともに寂れていました。江戸時代中ば、宝暦のころ乙吉村の庄屋金山太右衛門が施主となり佐州(佐渡)の浄念願主に改築したものが現在の墓です。
今回はお参りすることができず残念です。大不覚です。
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