2011年5月21日土曜日

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐東広島郷土史研究会レポート1

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レポート 報告1 「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」
  東広島郷土史研究会の春の臨地研修会で、「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」(島根県益田市)が開催された。出席者43名。

 7時芸陽バス本社、7時10分東広島市役所横を会員を拾って、出発する。この日は、前日までの雨が信じられないほどの快晴で気温も20度と心地よい研修会日和となりました。
山陽自動車道西条インターから、浜田道自動車道浜田インターチェンジで降りて、国道9号線を一路益田市へ向かいます。
 益田市では益田市ボランティアガイドの案内で、益田市内を雪舟・柿本人麻呂の事跡を案内していただきました。

最初に訪れたのは、万葉公園です。

万葉公園マップ
この万葉公園の遊歩道には万葉集に編まれた歌の看板が立てられています。左中央が管理センター、右上の公園の最終地点が高津柿本神社です。万葉に拘らず、オートキャンプ場などもあったり、利用率を上げようといろいろ施設があります。違和感がありました。

高津柿本神社
途中の広場から結局観光バスで途中から、神社まできました。途中の歩きいらなかったんじゃないかな?歴代天皇の歌の短冊など、文化的な資料をみてないので、なんか単なる観光客化した感じです。
高津柿本神社石柱
139段の階段をタダタダあがる
 観光地で、石段があるとなぜだか石段の数を説明してあるのだが何の意味があるのか何時も疑問に思う、段数を説明したところで元気どころかやる気を損なわせようというのだろうか?階段の段数を自慢しているのだろうか、半分ほどあがったところに、立派な楼門が建っている。中央の扁額の横になにか札が添えてある。
柿本神社楼門
 ここでほぼ中間地点、更に石段は半分残っている、この立派な楼門には、随身もいなけりゃ何も祭ってはいません。
 楼門の扁額は、有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)によるものと、札には書かれています。
有栖川宮 熾仁親王
 皇女 和宮の婚約者であったことは有名、トコトンヤレ節の歌詞「宮さん宮さん」とは有栖川宮 熾仁親王のことをさす。有栖川宮は歌道、書道を公家のたしなみとしていたが、家伝有栖川流書道は、歌道のみに使われていたが、扁額は有栖川流とは違う書き方をしている。
柿本神社楼門 扁額
有栖川宮 熾仁親王 揮毫

 柿本神社楼門 扁額です。 有栖川宮 熾仁親王 揮毫と札が添えてあります。なんか全体のバランスが悪いというか、自分には説明の札の方がいい感じなんですが。俗人の考え方なんでしょうか、歌の書き方と大きさ、扁額の大きさでバランスも悪かったのか?頼んだほうも「いいですね」としかいいようがなかったのか、もう一枚扁額を予備で用意していなかったのか?

柿本神社楼門由緒
 歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(七二四)、石見高津の鴨島で逝去された。
 聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(一〇二六)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
 現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(一六八一)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
 この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行三間、梁間一・五間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
 前回の大改修は明治二十四年(一八九一)に行われ、今回の平成十七年(二〇〇五)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。

人麻呂最後の歌と海底調査の説明を受ける

柿本人麻呂が死の直前に読んだ歌の歌碑です。
「鴨山の 磐根し枕けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ」
意味 鴨山の岩を枕として横たわって今まさに死のうとしている。
   そんな私のことを知らないで、妻は、私の帰るのを待ちわび
   ていることだろう

柿本人麻呂終焉の地とされる鴨島の遺跡調査が行われた
内容が書かれている
図をクリックして拡大して読んでいただければわかるが、海底には遺跡というか大きな一枚岩などが、あるようで、陸上や渚にあってできる岩や、人工的と思われるような切石などが見つかっています「。

島根県指定重要有形文化財である、柿本神社本殿の
説明が書かれている
万葉の植物と杜、とても興味深く、歌をしることができる。

 神社周辺には、万葉植物が植えられ今と万葉の時代の呼名
万葉集に読まれている歌が書かれた札が添えられている、
ぽつぽつと脈絡も無く、掲示されている歌の札板よりも、とても
興味がそそる工夫だと思いました。
境内周辺に、沢山取り付けられています。とても興味がわきました 

 これは、本殿下の池にあったもの、水生の植物に関する
解説板です。東広島市にもたくさんある植物たちです。
ただ、ヒシがよく生えている池には、ジュンサイは生えません
水の綺麗さが必要です。でも古代はどこも美しい水辺だった
でしょうから。共生していたのでしょうか。
 杜には巨樹も多く、守られてきたということがよくわかります。

高津柿本神社 拝殿 本殿は右の木の向こう側
 神亀元年(724)鴨島で死没した柿本人麻呂の霊を祀る社。万寿3年(1026)の津波で鴨島は海中に没し、人麿尊像が高津松崎に流れ着き、そこに社殿が再建されたが延宝9年(1681)風水難を案じた津和野藩主によって高津城のあった現在の地に移築された。単層入母屋造り、桧皮葺の本殿は正一位柿本大明神の神位と神階にふさわしい風格があり、全国柿本社の頂点に立つ神社です。学問・農業・安産の神として崇敬されている。?学問は兎も角「農業 安産」ですか?
 どうも、人丸と親しまれて呼ばれていることから、「ひとうまる:人産まる」、「ひ、とまる:火止まる」といったことで、安産、火防の神様としても祭られたようだ。農業はというと、石見に帰ってからは農業にいそしんだといわれているようで、農業の神様となったようだ。
亀趺碑 (柿本人麻呂顕彰碑) 石鼓文は、韻文に
よりゆえんを語るものとされ、亀趺碑は特に永く伝え
なければならないとされたものに、使われているもの
です。格式の高さが現れています。


石碑の最上部には雲と龍が彫られている、とても格式の
高い顕彰碑であることが判る。

石碑のアップ、正一位柿本大明神とあり、この地に
柿本人麻呂を祭神とする神社が建てられるまでの
いきさつが書き記されている

正面が拝殿で奥に本殿が見える
右横は、拝殿。中央奥に、石碑が見える

国指定重要美術品:
 御法楽御短冊6綴 - 享保8年から天保14年(1843年)にかけて奉納された、
霊元上皇始め6代にわたる天皇の御製歌が認められた短冊。
 昭和18年(1943年)10月1日に重要美術品に認定された。

柿本神社拝殿 額には人麿社とある
 享保8年(1723年)、柿本人麿の一千年祭と称して「柿本大明神」の神号と
正一位の神階が宣下された。
 現地にでは一千年祭を斎行するとともに、別当人丸寺を真福寺と改称している。
慶応元年(1865年)に真福寺を廃し、社号を「柿本神社」に改めた。

柿本人麻呂公像

実際にこんな感じの人だったんでしょうか、61歳で亡くなった割にはおじいさんという感じです。
柿本人麻呂公像


柿本神社由緒 石碑
祭神は、柿本人麻呂命と記されています。

柿本神社より歌越しに日本海を望む
できたら、松崎などにもいってみたかった。鴨島を展望したかったが、よくわからなかったのは、残念。

次は、午後からの石見神楽と雪舟の事跡について書きます。
報告2:雪舟萬福寺編へ→  

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