2010年12月25日土曜日

横田1号遺跡発掘調査現地説明会にいってきました。

横田1号遺跡
東広島市西条町の龍王山の南側のなだらかな斜面に沿って、弥生時代中期後半から古墳時代前半にかけての集落の跡が検出。東広島市内でも有数の拠点的集落であったことが推測される。
平成22年12月23日13:00から、東広島市西条町寺家横田の宅地造成地の発掘現場で行われた。昨夜までの雨も上がり、晴天のもと約220名余りの熱心な考古学ファンが集まった。
 
銅剣破片やガラス製玉などが見つかった住居跡(SB10)での解説風景
東広島市寺家 横田1号遺跡 H22.12.23
  弥生時代後期前葉につくられた10号住居跡(SB10)から土器とともに、銅剣破片、ガラス製玉2点が見つかっている。銅剣の破片は「関(まち)から茎(なかご)」という根元部分で「細型銅剣」という種類。他の銅剣の翼部分は通常1ミリに対し、2~3ミリと分厚いことが特徴で此れまで知られていない形状のもの。

東広島市西条町寺家 横田1号遺跡 細型銅剣 破片
 10号住居跡(SB10)の柱穴からガラスの管玉や小玉が見つかっている、管玉は、鉛バリウムガラス製で、中央部が膨らむエンタシス形、このタイプのガラス製管玉は、北部九州~北部近畿に分布しているが、弥生時代後期に限定的に見られるもの。墳墓の副葬品が殆どで、住居跡から見つかった例は今回を含めて3例ほど。
 小玉は、コバルトで着色されたカリガラス製で、濃青色をしている。両方とも舶載品である。

東広島市西条町寺家 横田1号遺跡住居跡から出土の
舶載品・ガラス製小玉・ガラス製管玉
 これら3点が見つかった10号住居跡(SB10)は集落の中で特別な意味をもっていたであろうと考えられる。
中世の墓穴からは、埋納品としての銅銭が見つかっている。他漆器が検出。

 竪穴住居跡は30軒、掘立柱建物跡2棟、土坑105以上、溝状遺構12条、性格不明遺構1基、ピット155基以上などが検出されている。(参照:説明会資料)
 ガラス製の管玉、小玉、青銅製の剣の破片が発見された柱穴を、説明員が示しています。出土の仕方としてはとても特殊な形です。10号住居跡(SB10)。
 食糧などを貯蔵していた、貯蔵穴も見つかった。

 この遺跡に隣接して、奈良時代の古代山陽道(巾12m)の推定経路、旧郡八幡神社や当時の特産品安芸木綿(ゆう)に関係するとおもわれる「ゆうりんさん」、賽の神など、延長線上の西条駅北面の御建遺跡では、豊臣秀吉が通った中世山陽道、青谷遺跡からは官庁でしか使用していない円面硯などが見つかり、この地方最大の建物跡が大地面(だいじめん)遺跡で見つかっている(国衙などの作業施設に見られる特徴がある)。注目されている地域でこれからの近隣の発掘に期待される。(東広島郷土史研究会 M文責)

横田1号遺跡案内

2010年12月21日火曜日

横田1号遺跡発掘調査現地説明会のご案内

横田1号遺跡発掘調査現地説明会
日時:平成22年12月23日(祝)13時~14時
雨天時:25日(土)順延
場所:東広島市西条町寺家 横田1号遺跡現地
主催:東広島市教育委員会・大成エンジニアリング株式会社・財団法人東広島教育文化振興事業団・創建ホーム株式会社
問い合わせ:東広島市教育委員会 生涯学習部 文化課
082-420-0977(文化課直通:当日も)
内容:弥生時代後期の竪穴住居跡、袋状土抗(貯蔵穴)、竪穴住居跡から、ガラス管玉、小玉、青銅器の破片が出土しています。
※この記事は、説明会のちらしを一部転載したものです。
※この記事は主催者とは関係なく掲載しています。

2010年12月11日土曜日

第27回東広島の史跡・文化財を見て歩く会~幕末「神機隊」の地、志和を訪ねて(広島藩の隠れ城、八条原城他)

第27回東広島の史跡・文化財を見て歩く会の要項が決まる
日時 2011年4月29日(祝) 雨天決行
受付 9:30~
開会式 10:00
出発 10:15~
帰着想定時刻 14:30~15:00(帰着後随時解散)
集合場所 東広島市立西志和小学校校庭
解散場所 東広島市立西志和小学校校庭
住所 広島県東広島市志和町七条椛坂1670
MAP
駐車場 有り(西志和小学校校庭)
参加費 大人500円 子ども(小中学生)無料
(参加費は、保険代と資料代の一部に充てられる)
持参物 弁当、飲み物、雨具
問い合わせ先 菅川 082-422-5185
広島藩八条原城跡
【コース】
幕末に活躍した広島藩の「神機隊」ゆかりの地をめぐります。本陣跡と隊士の墓、
広島藩の隠れ城といわれた、八条原城跡までの往復約12kmの道程です。
また志和の地は清流に蛍舞う山紫水明の地、美味しい空気と美しい自然環境を
目一杯堪能してください。また多くの巨樹など自然観察にもぴったりの歩く会です。

●西志和小学校→宍戸家→八条原城跡→東広島市園芸センター→二宮神社
→西蓮寺→西志和小学校
西蓮寺 神機隊本陣跡
【メモ】
志芳荘(しわのしょう)
1337年(建武4年)12月2日、足利尊氏が本家宗領職として天野讃岐守顕氏に相続を許した中に志芳荘、堀荘・伊豆守天野荘、武蔵国由井本郷大畑村、美濃国下有地御厨本郷などとある。(萩藩閥閲録遺漏)<飯田米秋>

和名抄にいう志芳郷の地、1128年(大治3年)の平正頼の譲状にはまだ、「志芳郷」(仁和寺文書)とある。
1200年(正治2年)2月28日吉田経房の日記「吉記」には、「志芳荘」とある。それによると志芳荘は、第77代後白河天皇の実姉上西門院統子内親王の荘園(本所)で、経房はその預所を勤めていたことが同記でわかる。のち志芳荘は、為寛僧都に譲り渡されるなどしている。1313年(正和2年)頃には京都東寺の造営料、次いで東二条院の御領となり、南北朝期の1336年(延元1年)11月26日には足利尊氏から京都本圀寺へ、1352年(正平7年)には、足利義詮からその地頭職が園城寺の造営料とし、1381年(弘和元年)7月には、大内義弘から厳島神社へ造営料としてその二分方地頭職が寄付され、幕府も承認している。国学院大学保存の久我家文書大原寺寺領目録の中に「安藝國志和給田」とあり、初めて「志和」の名となっている。
(賀茂郡史中世武士編)<飯田米秋>

毛利元就の七男 元政が、天野氏に養子に入り米山城入城

東天野氏12代目。毛利元就は11歳の七男、千虎丸を天野氏の養子とした。1569年(永禄12年)6月23日だった。

1570年(元亀元年)4月2日米山城に入城した。六郎左衛門尉・讃岐守・従五位下。天野氏は志芳での所領は15,500石だったが、関が原の戦い後は、周防国熊毛郡三丘(みつお)(山口県熊毛町)へ4,200石に減封。1625年(寛永2年)元政の子元倶のとき周防国右田村(防府市)へ移封され、天野右田毛利を称した。
(天野毛利文書・天野右田毛利譜録・関が原陣輯録・近世防長諸家系図綜覧)<飯田米秋>

西蓮寺 神機隊士墓
神機隊(しんきたい)

正式には芸州回天軍第一起神機隊。幕末期芸州藩(広島藩)に結成された「諸隊」の一つ。賀茂郡志和七条(現東広島市志和町)の西蓮寺を本陣とし、同奥屋の報専坊及び大行寺原に営舎が置かれた。後に尾道の西国寺にも分営が設置されている。

芸州藩には主要なもの15隊あり、全国で300隊を越していた「諸隊」(長州藩の騎兵隊も含まれる、藩の常備隊の補充隊)の中でも最大規模の部隊で、農商階層出身者だけでも1200名を越えた大部隊だった。賀茂郡檜山村(現東広島市高屋町桧山)の庄屋出身の藩士木原秀三郎貞義(後ひ適處(てきしょ)と改名)が中心となり、藩に結隊の建議書を提出。

小隊長の藩士加藤種之助は、後の内閣総理大臣 加藤友三郎の実兄であり、養子に迎えた。加藤友三郎は、兄であり父でもある加藤種之助が、神機隊の働きを認められ、新政府に雇用され、その働きで友三郎は海軍兵学校へ入学し、海軍大臣から、内閣総理大臣となることができた。
加藤友三郎(かとうともさぶろう)

文久元年(1861年)広島市大手町に生まれる。海軍兵学校7期卒。海軍大学校卒。海軍大臣、総理大臣を歴任。とくに、海相は7年10ヶ月の長きにわたり務める、子爵、元帥。日清・日露・第一次世界大戦で、活躍。東郷平八郎司令長官と共に活躍。第一次世界大戦後、海軍大臣であった加藤友三郎は、初の軍縮会議であるワシントン軍縮会議で、主席全権として調印。その功績がみとめられ第21代内閣総理大臣となる。自ら軍縮を推し進めた。いかなる時も冷静さを失わない加藤友三郎だからこそ、苦難の会議であったワシントン条約を締結できたものといわれる。加藤友三郎は、人前では冷静さを失わないが、友を思い一人になったとき、号泣するほどの熱情家であったという。大正11年6月首相・海軍大臣兼務。加藤友三郎は軍縮を実施するも、奇しくも癌に冒され、大正12年8月首相在職のまま亡くなる。加藤友三郎の軍服姿の銅像が広島市南区比治山にあったが、第二次世界大戦のとき金物供出で失われ、現在は台座のみとなっていたが、近年広島市中央公園に加藤友三郎銅像復元会の手で軍縮宰相としてふさわしい姿の銅像が建てられている。

加藤友三郎wiki 加藤友三郎写真  歩く会実施の記録