2011年5月27日金曜日

第32回郷土史展「東広島の明治維新」~志和に結成された神機隊と広島藩の隠れ城八条原城~東広島郷土史研究会

第32回郷土史展「東広島の明治維新」
~志和に結成された神機隊と広島藩の隠れ城八条原城~



本陣:西蓮寺を戊辰戦争に出発する神機隊士の図
東広島郷土史研究会作成

主催:東広島郷土史研究会
於:東広島市民ギャラリー
フジグラン東広島店2F MAP
期間:平成23年(2011)9月27日(火)~10月2日(日)
休館日:月曜日は入れ替えのため休館となっています。
時間:10時~ 18時 最終日の日曜は17時まで
入場料:無料
神機隊本陣跡 西蓮寺

西蓮寺にある神機隊士の墓
平成23年4月29日、第27回ひがし広島の史跡・文化財を歩く会で、神機隊ゆかりの地を訪ねたが、約600名の人々が参加くださいました。特に神機隊や八条原城に関心を寄せていただき。当日説明できなかった資料を併せて展示いたします。
当日、もっと詳しいことを聞きたい知りたいという希望が多く寄せられ、急遽追加企画を開催することになりました。   歩く会の様子をご覧ください

第27回ひがし広島の史跡・文化財を歩く会
 幕末、日本の近代化のために活躍した郷土広島県の人々。とりわけ、賀茂郡檜山村(東広島市高屋町)の庄屋出身の藩士:木原秀三郎と義弟の河合三十郎が建議した「芸州回天軍神機隊(しんきたい)」と「八条原城(はちじょうばらじょう」の築城について紹介をする。
神機隊は東広島市志和町西志和の西蓮寺に本陣を置き、その後戊辰戦争出兵し福島県直江地区などで活躍したが、官軍の先鋒隊であったがゆえ激戦と成り300名のうち半数が死傷した。その後、八条原城も東広島市志和町へ築城が進む。江戸幕府は一国一城を定めていたので、あくまで表向きは藩士の学問、修練の場としての文武塾を作ったが、藩主別邸や政治堂、さらに当時志和全体での米の取れ高8千石を納めることができる米蔵までも建てられており、建築当時から志和盆地への交通の要衝には、神機隊士を配し厳重に警戒した。
幕末当時、全国には官軍、幕府軍よりの諸隊とよばれた長州の奇兵隊や幕府側の彰義隊や会津の白虎隊など、正規軍ではない約300隊余りの農民など(神官や女性だけの部隊もあった)の募集であつまった隊が存在していた。広島藩も15隊あった(分隊や合併などある)。
戊辰戦争で戦った第一部隊隊士や遺族には、生涯二人扶持と苗字帯刀の恩典があたえられるのだが、その後の廃藩置県で何もなくなっている。
【神機隊と逸話】
官軍が、相馬藩領小高に入り藩の米倉を押収し各隊に分配した、それが領民のための救荒米だと分かった時、神機隊だけが無償で返還をしている。
また44名の犠牲者を出した広野の戦いの直後の進撃中、火傷を負った幼児を守って只一人家に残っていた農家の嫁を見てこれを励まし、その家の真宗風の仏壇を見て恭しく拝礼し、銭を供えていった兵士もいた(福島県大熊町公民館発行「民話シリーズ」第二号)

八条原城本丸絵図

八条原城跡の石碑

八条原城本丸を解説した
神機隊士に扮した解説員
歩く会の4月29日。八条原城の本丸入り口に門を再現し、神機隊士に扮した東広島郷土史研究会の解説員が本丸に建てられた、藩主別邸や政治堂などの当時の建物を解説しました。
本丸周囲にめぐらされたい石塁

志和地区全体から集められたといわれている。
草原と右の林一帯が八条原城
 東広島郷土史研究会では、幕末の動乱期に活躍された郷土の先輩に対し、感謝の気持ちと哀悼の意を奉げます。この度の東日本大震災、とりわけ福島の原発事故で避難されている浪江地区など浜通りは、まさに神機隊が進んだ地域であります。亡くなられた方々のご冥福と、復興をお祈りいたします。  

2011年5月26日木曜日

第25回ホタルまつり 東広島市志和町志和堀

第25回ホタルまつり 東広島市志和町志和堀 志和堀小学校と半川沿い
主催:志和堀ホタルまつり実行委員会



〒739-0269  広島県東広島市志和町志和堀3054
電話:082-433-2144 

2011年6月4日(土曜日)
第25回ホタルまつりポスターPDF ←式次第が掲載されています。駐車場の案内もあります。
 16:00には、売店は開店してます。お早めに
 
・メイン会場から少し離れた、「半川」の散策道では約400~500メートル渡り、「自然のホタル」が飛び交っています。地元では生活用水を流さない、物を捨てない等の取り組みや、夏の一斉清掃、土手の草刈等を行い環境を守っています。


ホタル舞う半川
 
まつり会場 東広島市立志和堀小学校 MAP
会場MAP 志和堀小学校サイト PDF
ホタル観賞 半川沿い
駐車場 有 志和堀中学校 近く 誘導有

16時30分~21時

車:山陽自動車道志和ICから約15分  MAP



第24回ホタルまつりの様子です。


志和堀 ホタルまつりでの蔵田市長のあいさつ

ホタルまつりの由来 PDF 志和堀小学校サイト

 地域のまつりとして、すっかり定着したこの「志和堀ホタルまつり」ですが、由来は昭和61年、志和堀小学校が「ホタルの里づくり」の指定校を受けた事を契機に、翌昭和62年6月PTAが中心になり、第一回目がスタートしました。

 当初は規模も小さく、PTAによるホタル作品募集や焼肉大会、ホタルの乱舞という簡単な内容でしたが、こども達の為に「あたたかい故郷づくり」を進めたいという地域の熱意で年々盛り上がって来ました。


2011年5月25日水曜日

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐東広島郷土史研究会レポート

平成23年5月18日東広島郷土史研究会
春の臨地研修会 「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」を開催いたしました。

ルートは

午前7:00 芸陽バス本社 出発
午前7:15 東広島市役所横 出発

内容詳細は、各項目をクリックしてご確認ください。
1.万葉公園と柿本人麻呂神社

柿本人麻呂が死の直前に読んだ歌の歌碑です。 「鴨山の 磐根し枕けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ」
2.昼食:石見神楽、雪舟庭園 「萬福寺」 石見神楽動画あり
雪舟像
3.雪舟庭園・雪舟灰塚、益田氏 七尾城大手門(医光寺総門):「医光寺」、雪舟の郷記念館、大喜庵(東光寺)雪舟廟 島根県芸術文化センター グラントワ

上記のとおりです、時間の関係上 三宅御土居跡 「益田氏の政庁、居館跡」は、見学いたしませんでした。(そのほか若干あり)

総員43名(バス1台)の参加で、和やかなムードで一人の怪我もなく無事、東広島に到着をいたしました。

グラントワについては、今回はレポートいたしません。

2011年5月23日月曜日

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐東広島郷土史研究会レポート3

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐レポート3

レポート1:柿本人麻呂編  レポート2:雪舟庭園萬福寺編


萬福寺を出て、さらに医光寺へと向かいます。


医光寺 総門
歩いて、医光寺へ到着すると、凄く時代のある門が建っているやたら高い門だ、聞くと川向の七尾城の大手門だったという。つまり騎乗のまま門をくぐれると言うこと。
 さらにやたら城門にしては、艶っぽい、あの琉球の守礼の門を思い出す。建てられたのち、改装されて今の二段の屋根にしたそうで、「竜宮造り」という「唐門」とも云われる。17世紀後半のことだ。社寺にはよくある形だ。

医光寺総門から中門・本堂を見る


医光寺総門を見上げる、実に肉太な城門で
木材の枯れ具合が実に時代を窺わせる。
医光寺 総門のところで記念写真を撮影した

さて、医光寺へ

医光寺境内の案内図
医光寺の境内の案内があったので紹介、雪舟の庭園は本堂の裏のようだ。

県指定文化財 
医光寺総門 旧益田七尾城大手門
益田市染羽町4-29 0856-22-1668
開館時間 8時30分~17時 休館日 無休
島根県指定文化財
医光寺総門
指定昭和三十四年九月一日
 高麗門形式の門で、屋根は切妻造り、本瓦葺、中央を高くし、両側を一段低くした構造になっています。
 この門は、慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、益田氏二十代元祥の長門国須佐への移住に伴い廃城となった七尾城の大手門を移築したものと伝えられています。

向こうが七尾城跡
七尾城の大手(城の正面)は、医光寺から向かいの南側に見える七尾城山の中央の谷あいと考えられています。南北朝時代には当時の大手口「北尾木戸」で三隅方との合戦があったことが益田家文書に残っています。
 十七世紀後半に屋根を改めたといわれ、前面の都市計画道路中島染羽線の整備に伴い、平成四年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われました。
構造、意匠とも簡素ですが、本柱、冠木ともに太く、戦国時代末期の豪壮な城門の姿を残す貴重な建造物です。
平成二十年三月
益田市教育委員会

チェンソー1本で切り出された
雪舟、ネズミがかわいい

医光寺 雪舟庭園
国史蹟及び名勝

2011年5月22日日曜日

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐東広島郷土史研究会レポート2

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐レポート2
←レポート1:柿本人麻呂編へ戻る レポート3:雪舟庭園医光寺へ→
さて、益田での午前中の臨地研修も終わり、昼食の時間となる。
食事は島田家という、天皇皇后両陛下も宿泊されたというホテルです。
今日は地元石見神楽を舞っていただけるということで、楽しみな時間となりました。


割烹旅館 島田家

「いわみ益田は なつかしところ 水も枕の下をゆく 島田楼にて」と、
野口雨情は詠む、戦国山城七尾城趾の麓、清流益田川畔にあり、
雪舟の庭園で名高い萬福寺に、対峙する純日本式旅館です。

地元神楽団による恵比寿舞をご覧ください

恵比寿様、鯛釣りに興じ。餌を取られたり、針を引っ掛けたりと大変なことですが、最後は見事な大物の鯛を釣り上げるという内容です。益田地方ではお祝い事には必ず舞われるということで、最後には各テーブルを回って、飴を配ってくださいました。恵比寿様は釣り上げた物を自分のものでなく周囲に分け与えてくださるのだとか。
各テーブルを回り、飴を配る恵比寿様
 とても会場が盛り上がりました。
島田家で食事を済ませ、川の対岸にある、万福寺を歩いて目指します。途中の家々の2階の床辺りに水害で水が迫ったところに印が付けられていました。
さて、島田家から、100mくらいのところに、資料館があり、聞くと元郡役所の建物ということでした。

益田市立歴史民俗資料館
益田市立歴史民俗資料館
〒698-0005島根県益田市本町6番8号 TEL/FAX:0856-23-2635

庭先にある樹齢120年のニセアカシア

ニセアカシアも樹皮が剥がれ
多くの人がよじ登ったのでしょうか
酷い有様です。
周囲は舗装で固められ
根にとっては過酷な環境です。

ニセアカシアの解説


資料館向かいには徳川夢声生誕地がありました

徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日-1971年8月1日)
本名:福原駿雄(ふくはら としお)

晩年の 徳川夢声
市の前身益田町生まれ。後、津和野町に転居、幼い頃上京し活弁士となった。 話芸の 神様と呼ばれた。菊地寛賞、紫綬褒章受章。

徳川夢声市民賞
 夢声の生地益田市が、2001年より、夢声にちなんで話芸に秀でた人を表彰する賞として授与している。
益田川に掛かる新橋を渡ると雪舟庭園の萬福寺

橋を渡りふと先ほどの川向こうに大きな建物があった
あれが、元郡役所の益田市立歴史民俗資料館ですね
後ろから見ると大きな屋根なので圧倒されますね


鎌倉時代に建てられた、重要文化財萬福寺本堂とあります
〒698-0004 島根県益田市東町25-33

重要文化財 萬福寺本堂
 萬福寺は南北時代の応安7年(1374)に益田市11代兼見によって創建されました。益田氏の菩薩時で鎌倉時代の様式を残す寄棟造の本堂と仏画の絹本著色ニ河白道図は重要文化財に指定されています。
萬福寺本堂についての解説を聞く
熱さと食後の満腹感でぼうっとしてます

萬福寺本堂の解説を聞く満腹の面々
重要文化財が2つあります

雪舟像

萬福寺の宗旨が書かれています

建物の中からみえる庭


万福寺庭園 国史跡及び名勝

1478年(文明10)頃に雪舟によって作庭されたと伝えられ、心字池の護岸と緩やかな築山の頂上から渦巻状に広がる大小の見事な石組群、やや離れて位置する三尊石、枯滝石組が一体となって須弥山世界を象徴している室町時代の庭園で寺院様式という手法で造られています。右の枯滝と築山の暗部と、左の三尊石の明部の対比が庭に奥行きを与えています。

絹本著色ニ河白道図
絹本着色、鎌倉時代の仏画。
鮮やかな筆のはこび、阿弥陀如来と釈迦牟尼佛の衣にほどこされた繊細な切り金細工きりがねざいくなど、当時一流の絵師の作と思われる。
「衆生は、ただ今の一念によって往生する。その時、娑婆世界と極楽世界の境界はなくなる。」という一遍上人いっぺんしょうにん の念仏思想を 絵画化したもので、時宗の要諦を一目に示す無類の優品です。

医光寺本堂内部
右側に、襖が外され 衝立のように立てられているが、益田の水害のときの水の跡がはっきりと判る。

かわいい虎、猫じゃないです。下の白いところが水害の跡
龍の絵 白くなっているのが水害の跡

本尊薬師如来

玉跡(木栓が跡)
幕末、 第2次長州征伐、益田口戦争 で、幕府軍福山、浜田両藩の陣地になった。その時の鉄砲の弾跡が柱に残っている。 二個の木栓が玉の跡、取り出して木栓が埋められている。上下にアールの付いた傷があるが、鉄の隠しが付けられていたそうだ。

さて次は、雪舟庭園のある医光寺へ参ります。