2008年12月22日月曜日

紙上博物館を見よう「広報ひがしひろしま」連載中のシリーズ紙上博物館 今月の逸品に出会える


期間2008年12月23日(火)から2009年1月11日(日)まで
開館時間 10時~18時まで
休館日 12月29日(月)から1月4日(日)まで
会場:東広島市民ギャラリー 
場所:東広島市西条町御薗宇 フジグラン東広島 2階
入場無料

主な展示資料(期間中一部展示替えをします)
西条町安芸国分寺周辺遺跡出土 陶製桝
西条町西東子遺跡出土 弥生土器(壷)
福富町上竹仁 八手の観音
黒瀬町樋之上八幡神社 天文23年銘絵馬写
河内町二反田古墳出土 装飾付台付壷、子持ち器台
安芸津歴史民族博物館 三浦仙三郎氏使用温度計
豊栄町本宮八幡神社 紙本墨書大般若経(パネル展示)
高屋町西本遺跡出土 毛彫馬具
八本松歴史民族資料館 山陽鉄道建設工事使用の測量器

いずれも、すばらしい逸品ばかりです。
主催:東広島市教育委員会
問い合わせ先 文化課082-420-0977
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展示品のいくつかを解説すると、★西条町安芸国分寺周辺遺跡出土 「陶製桝」というのは、桝というと方形のものを想像するかもしれませんが、どっちかというと計量カップを想像したほうが、正しいと思います。コップ状の素焼き器です。家庭の米びつの中にあるような、カップです。
★安芸津歴史民族博物館 「三浦仙三郎氏使用温度計」は、同時に酒造りのテキストも展示されています。酒造技術は、当時はというより古来より、経験と勘にたよる職人技、神業ともいうべき、技術でありました。それがテキストができ、温度計を使って、もろみの管理を科学的に管理する近代酒造技術の曙とも言うべき展示品です。酒のことについて一過言あるかたは、見逃すべきでない逸品です。
★高屋町西本6号遺跡出土 「毛彫馬具 」というのは、金メッキ製のもので、国内で出土している数も少なく。現在のところ出土地としては、最西端となります。以前シンポジウムが東広島市で開催されました。
そのとき用に金具の復元品も作成されていて、同時展示されています。またこの西本6号遺跡は、「解除(はらえ)」を行った、古代の祭祀遺跡とおもわれる建物群があり、「解除(はらえ)」の文字が墨書された土器が発見され、全国的にも一大発見でした。現在建物群の柱跡は、東広島市史跡として、史跡公園として保存されている。(高屋町、アスカパークという団地内にあります。)
★八本松歴史民族資料館 「山陽鉄道建設工事使用の測量器」 は、あの精米機の「サタケ」の創始者、佐竹利市氏が実際に測量につかったものです。また、明治9年佐竹利市氏(13歳)は、当時村長である木村和平氏より、村の地粗改正のため、田畑の測量を依頼されます。それを2年で終了させています。明治11年、佐竹利市氏(15歳)は、単調な精米作業を機械化したいと考え、木村和平氏に相談に行きます。突拍子もない話とは思いましたが、利市ならやれるとも思いました。(木村和平氏は小島酒造を経営していた(現吟古館))(サタケ資料より抜書き
近代酒造業の恩人とも言われる2人の遺品がここで同時に見られるのは、とても珍しいことです。
ぜひ、一見の価値があります。
★まだまだ、書き足りませんが、ここにて筆をおかせていただきます。mm

2008年12月19日金曜日

干支平成21年は己丑

平成21年の干支といえば、 丑ではなく、
己丑(つちのとうし・きちゅう)ですね。

なんと60年に1回しか回ってこない干支です。 (当たり前ですが)

丑は、本来うし(牛)を意味するものではなく、牛との関連性は100%ありません!じゃあなんでウシなんだ?単に一般庶民が覚えやすいようにということで、動物名を何の関連性もなく当てはめてしまっただけということで、いつの間にか庶民が、関係のない動物のほうばかり気持ちがいってしまい。ウシのように一歩一歩確実に歩むとか、猪突猛進のとか、ばかばかしい話をしたりするわけですね。まさか、みなさんは年賀状に牛(ウシ)なんか書いてないですよね。干支はなにかときかれ、ウシ年の生まれですなんて答えないですよね。
本来は、植物の成長の様子を表わしたものを組み合わしたもので、動物とは縁も無く、動物の丑のほうへ気が向いてしまいがちです。

「己」というのは、筋を通すという意味があります。紀がもとの意味。
また、「丑」の字は、紐のことで絡まる様子を表わし、固い種子の中から芽ぶきを待ち、やがて茂り、実を結ぶ意味があります。

2008年12月15日月曜日

中世山陽道跡~御建遺跡見学会~

〔中世山陽道跡~御建遺跡見学会~〕
平成20年12月14日(日)午後1時半より、JR西条駅北側御建神社参道前・教善寺前の「御建遺跡」の見学会が行われた。今回は戦国時代の中世山陽道と思われる道の跡が発見されたというもの。この地は周囲が安芸国分寺や、秀吉が九州出兵(島津攻め)のため、宿泊した旦過寺(たんがじ)跡もあり、さらに、一直線上には、寺家の上道(じけのうわみち)と呼ばれる、古代山陽道(奈良時代)の推定コースに向かっており、出土した陶器の破片などから、戦国時代の山陽道ではないかと思われる道の跡です。
御建神社の参道前、教善寺の門前に、一号遺跡がある。ここからは、一段深くなっているところが、次の2号遺跡にぴったりとルート的には適合していて、山陽本線線路に向かって道が伸びているように思える。・・・・山陽本線の下に山陽道があるのだろうか?

コンクリートの基礎により、遺跡はあらされているのが、まことに残念。この道の後からは、廃止されてから、陶器の破片など、捨てられ、その陶片から、年代がわかるのである。

ここからは、素焼きの茶釜、古い時代の備前焼(焼きしめ以前の土師器に近いもの)李朝の青磁など出土している。
古伊万里、唐津など、その種類は多彩です。
こういった陶片から想像されることは、
この一帯にはそれなりの結構裕福な人が住んでいたことが想像できる。
近くの〔旦過寺〕には、たぬき和尚の話が伝えられていて、茶釜と狸和尚がなんだか、頭の中でくっついて、文福茶釜を想像してしまいました。
〔中世山陽道跡〕
二つ目の遺跡には、はっきりと中世山陽道の姿が、現れています。
土の黒いところは、田んぼの肥え土で、昭和まで、耕作が続けられていました。田んぼが江戸時代初期から現代まで耕作が続いていたと思うとなんだか、すごい気がします。
2メートル幅の道の両側に排水溝らしき跡も見られ、両脇の地山を掘り込んで道に整備したものと思われる。遺跡の上の黒い土の層は、水田の跡で、これは、現代まで水田として使われています。さらにその上に真砂土が埋められたのは現代の地層です。住宅が造成地に建てられていました。見学にこられた近所の方は、水田があったことは覚えておられました。
〔旦過寺・観音堂〕 現在の様子
旦過寺とは、主要道路沿いに、修行僧が、修行旅の途中に宿泊する施設で、全国に同様の名前があるのは、そのためで、旦とは、元旦の旦で、水平線に上る太陽を現し、朝という意味の字です。過とは、過ぎること、朝には旅立つことを旦過といいます。丘陵地を下ってくる道を、島津家久が四日市に入り白山城が見えると記述しており、たしかにこの道をくだっていくと、左手に低い白山城がみえるので、たしかにここを通ったのだろうと、創造ができるのです。慶長には、四日市の町並みの縄張りがなされた記録から、この道が機能しなくなり、移っていったことが推測されます。さて、古代の12メートル幅の山陽道はどこにあるのか?実は直線性を重視されていたゆえにさらに、その上の下の山ろく上をわずかに切り通し、開通しても崩れたり、けずられたりし、次第に切り通され水平に近くなり痕跡が中世のみちまできり下がり、古代に立てられた神社などが、切りとおしの上に取り残されたり痕跡が延長上には残されていたりします。西条でこういった山陽道の跡が出土することは意義があり、今後の発掘が楽しみです。
旦過寺は、室町末期(戦国)天正15(1587)年、島津との戦いのため九州へ向かっていた豊臣秀吉が3月15日に宿泊したと、記録に残されています。

2008年12月12日金曜日

後ろ向きな二宮金次郎像

フジグラン横の御薗宇保育園の敷地外におかしなものが建っているので車を降りてよく見ると、二宮金次郎の像でした。なんと後ろ向きに建っているではないですか、金次郎像の前は、植木があり、園内から二宮金次郎が見えないようにされています。元は、小学校の敷地で、いろいろな記念碑などそのまま残されています。




右が、市営住宅左が保育園の敷地で二宮金次郎像は、どちらからも邪魔者のように扱われ、敷地の外に・・・・
この金次郎さんやたら、つやがいいので良く見るとなんと陶器の金次郎像です。さらによくみると。






寄贈者と世話人さんの名前が掘り込まれたプレート・・・昭和12年と書かれている。第二次世界大戦のときは、金属は全て供出と効いていましたが、昭和12年ではその必要はなかったのでしょうが、もしかして供出はされたが、陶器の二宮金次郎を変わりにすえたのか?


よくよくみると、伊部窯元とある、窯印もある。
備前焼の二宮金次郎さんだったのです。
よくまあ、壊されたりせずに、立ちつづけています。
よほど地域の方に大事にされたのでしょう。
この金次郎さんの周りは、御薗宇村の中心地で
あったようで、村の主要施設の跡の石碑がいたるところにあります。しかし何れも、撤去移転などされず、取り残されたまま、近寄ることも許されない状態で残されています。




2008年12月11日木曜日

電気の燃料別CO2排出量

家庭で使うエネルギーが、電気に次々と切り替わってきていますが
いったい、電気を発電するのにどのくらいのCO2が発生するのか
調べてみました。
日立のホームページから引用します。
CO2(二酸化炭素)についての基本知識
Q、1kwhを発電するために、CO2は何グラム発生するのですか?
A、CO2排出量は火力、原子力、風力など発電形態によって大きく異なります。また、燃料の種類や発電プラントの特性、発電所の運用方法など、さまざまな条件により異なります。例えば、(財)電力中央研究所(電中研)によると、以下のように発表されています。これは、燃料の採掘から輸送、発電設備などの建設、運用、保守にいたるライフサイクル全体でのエネルギーを対象にしたCO2排出量となっています。

石炭火力発電:975g-CO2/kWh(送電端)
LNG火力発電:608g-CO2/kWh(送電端)
原子力発電:22g-CO2/kWh(送電端)

同じく日立のホームページによると
日本人が、一年間で減らす、CO2は、365kg 約白くま1頭分
オール電化で、IHコンロにすると、年間40kgの削減
エコ給湯器で、約1,622kg削減できるのだとか 白くまでいえば、約5頭分
日立ならではの、面白い表現だ、樹木で表現するなかで、
ちょっとほのぼのする表現だ。
(数値はあくまでも引用値で、想定の条件で計算されたもの)
(HITACHIは、エアコンの白くまくんを販売している)

中世山陽道跡見学会---秀吉の通った道か?

〔中世山陽道跡見学会---秀吉の通った道か?〕
JR西条駅北側の御建遺跡で、中世の山陽道と思われる、道路の遺跡が見つかった。
道路の幅は約2メートル両側に側溝がついている、旦過寺跡もあり、関連も考えられるという。
現在の道より1メートル程、掘り下げたところに、遺跡が出ている。北側は、地山だが、道路から
南側は、何層にも造成して埋めたあとが、地層からよくわかる。
12月14日(日)午後1時半から見学会、
問い合わせ:東広島市文化財センター
090-7541-7735



<<旦過寺(たんがじ)>>西条町西条一の坪に小堂があります。
(御建神社横のグラウンドの西南の墓地に観音堂)
そのお堂一帯が旦過寺の跡と伝えられています。
 昔は禅宗のお寺で、旦過とは「夕べに来て、翌朝行き過ぎる」という意味。
禅宗の行脚僧が、来て一夜の宿を求めたところから出た名だといいます。
旦とは、朝日のこと朝には旅立つということです。
天正15(1587)年3月15日、秀吉が九州へ出兵との戦いの途中、宿泊しました。
1596年間(慶長)に廃寺となりました。江戸時代中ごろまでは小庵その他がありましたが
今では全て消失しています。