2009年1月25日日曜日

第25回東広島の史跡・文化財を見て歩く会コース最終決定

 恒例の東広島の史跡・文化財を見て歩く会(第25回)のコース・関所の案が東広島郷土史研究会の1月定例会で、専門委員会より発表されました。
 要項は次のとおりです。
●期日は、平成21年4月29日、
●集合場所:鏡山公園テラス(第一駐車場奥に変更)
●午前9時:受付開始、
●午前10時:開会式
●参加費】大人(高校生以上)500円、小人(小・中学生)300円
※弁当・飲み物は持参ください。
★午前10:15スタート本部(鏡山公園テラス)→□関所1、サイエンスパーク(水鳥集会所)→□関所2、吾妻子の滝公園→□関所3、三永水源地(昼食予定地点)→□関所4、観現寺→□関所5、氏神社→□関所6、鏡山城(ゴール):到着、解散(15時位予定)。
★参加された方は、受付で解説MAPと、通行手形(国産ケヤキ製)がもらえます。
★手形見本(第20回のときの通行手形)
★通行手形に各関所で関所印を押してください。
★最後まで歩かれた方は、ゴールで、東広島郷土史研究会特製の記念手拭がもらえます。
通行手形も手拭も、大人気で毎年参加を楽しみにされている方も多いですよ。
例年、広島大学などの先生や学生、JAICAの留学生の皆さんの参加や、市外、他県からも多くの参加があります。
過去の様子を見る。(第20回) ←必見
★主催:東広島郷土史研究会  協賛(予定) 西条ロータリークラブ、東広島ウェストライオンズクラブ、東広島観光協会、東広島青年会議所、東広島21ロータリークラブ、東広島ライオンズクラブ、東広島ロータリークラブ(50音順)  後援(予定)東広島教育委員会、東広島市商工会議所、広島中央農業協同組合、中国新聞社、中国放送(株)、(株)広島テレビ、東広島リビング新聞社、(株)プレスネット(順不同)
★★こまかい内容が最終決定まで調整されますので、時折、このサイトを見てください。
★★準備状況などの様子もアップしてまいります。ご注目ください。
問合せ先:東広島郷土史研究会事務局-栗本哲雄 (082)422-2293

2009年1月19日月曜日

東広島市史跡 西本6号遺跡 飛鳥時代 祭祀遺跡

平成17年(2005)5月2日指定

飛鳥時代後半(7世紀後半~8世紀初頭)の祭祀遺跡

場所:東広島市高屋町大畠、あすかパーク西高屋内・・・団地主要道の中腹右の山沿いにある、遺跡公園になっている

祭祀跡は、保護土がかけられ、こんもりとした芝生の丘になり、柱跡は、マーキングされ、建物群があったことを記している。
遺跡は、残念ながら全体が残されているわけではなく、主要な建物柱跡のみが残されている。出土品の展示や、写真などの掲示は一切ない。


こういった祭祀遺跡が、なぜ市史跡なのかというと、出土した墨書土器に、「解除」(除はほとんど残っていないが)と書かれたと考えられるものが出土している。また、金銅の毛彫馬具(杏葉・ぎょうよう)が、見つかっている近畿を中心に以東で、多く見つかり、最西端の出土がこの遺跡で発見をされている。当時、金銅の毛彫馬具の復元もされ、シンポジウムを行うほど、遺跡と出土品の持つ意味が 重要だということです。
出土した、墨書土器により「解除・はらえ」に使ったものであるということが判明。
はっきりと、「解除・はらえ」と書かれたものが見つかったことは、大変重要で全国的にも始めてであった。 またこの遺跡で円面硯(えんめんけん)と呼ばれる、土器製の硯が発見されている。
円面硯は、古代、官衙で使われていたもので、なんらかの役所の施設であったのではないかと考えられる。









2008年12月末から2009年1月初めまで、第七回東広島市文化財展が、フジグラン東広島の市民ギャラリーで行われた際、馬具金具と、墨書時など出土品が展示されていた。その出土品があったのが、この西本6号遺跡だ。
発掘状況と遺跡の重要性について

ハカラメから芽が出ました

2008年末にいただいていたハカラメの根が出てようやく、芽が出ました。とっても可愛い芽で、近所のお好み焼き店「こぼん」にも分けていたものは、コップの中で、芽と根がしっかりでていました。やはり店内が営業中などあたたかくなるので、成長も早いのでしょう。




葉っぱのギザギザの根元からしっかりと芽が出ています。


ハカラメ過去LINK
ハカラメをいただきました。

ハカラメから根が出ました。

お好み焼き「こぼん」 東広島市西条町下見3021 TEL082-421-0785

こぼんにハカラメがあります。見てください。

2009年1月11日日曜日

小野篁 産湯池跡 産湯川神社

小野篁(おののたかむら)産湯の池跡と産湯川神社

小野篁は、現在の東広島市河内町入野に、生まれる。
地元、竹田村の八千代という女性が、子供がほしいと
千日満願をたて、竹林寺の前身の「桜山花王寺」に千日、通い続けた千日目満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802年(延歴二十一年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾はこれ篁なり」と名乗った。八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりよりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。(小野篁解説板より)その生誕の地、産湯池跡が残る。そばには産湯川神社がある。
「篁山竹林寺縁起掛絵」には、八千代は、「時は5月半ば、寺からの帰りに竹田村の竹林を通りかかった八千代は俄に戯れ心を起こして、生え出ていた竹の子に嫁ぎを為し、和歌一首を詠んで別れた。「短夜の名残ぞ惜しきしののめのさがなきことを人に語るな」。」とある。下の解説板は近くの竹林寺にあるもの。

竹林寺参道下に、生誕の地の碑と、解説板が立てられている。竹野辺秀職に使える八千代という女性が千日満願によって授かったとあり、生まれたとき、「われはこれ篁なり」と、いったとか・・・御釈迦様みたいな話ですね。
12歳で京にのぼり、さらに学芸・詩歌に励み、西三条関白小野大臣良相の娘と結婚し、小野を継ぎ、小野篁とこのときよりなった。嵯峨天皇に使え、参議太夫に登用され、文章博士任ぜられる。

山陽本線のガード下に小野篁の産湯川神社、産湯池跡の案内板が地元の郷土史研究会の方の手によって立てられている。ガードをくぐり、産湯川のほとりをまっすぐ200M行くと右手に墓地が見えその右に祠が見える(見えるのは実際には、鞘堂で、その中に祠が安置されている。)さらに右手に、茂みがあり玉垣で囲まれた窪地があり、そこが小野篁の産湯池跡という、石碑が建てられている。
神社と鳥居、その奥の茂みが産湯池跡。
竹林寺縁起絵巻にある篁出生の条

広島大学附属図書館デジタル図書館
竹の子のくだりは、後世書き加えられたものとの説がある。
・・・・なんだかキリスト生誕や、お釈迦様の生誕に竹取物語まで加わったような話ですね。いろいろと伝説やら物語やらというのは、書き写せば書き写すたびに面白く、さらにもっと聖人・偉人らしいようなエピソードをいろんなところから、書き写してだんだんと長い文章になっていく傾向にあるようですね。
産湯池跡横には
石碑も建てられていて、その向こうには玉垣寄進の石碑。





玉垣に囲まれた中心が、産湯池跡













菊池容斎「前賢故実」の小野篁肖像(想像図)







百人一首にある、参議篁の絵と歌。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首11番)

古今集巻九(羇旅)
「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける 小野たかむらの朝臣
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(古今集)
思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今集) 
しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあなう世の中(古今集)
文章生・東宮学士などを経て、仁明天皇代、遣唐副使に任命された。大使藤原常嗣の理不尽な要求に反発し、大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて隠岐に遠流された。「わたの原…」の歌もその時の作。のち、帰京を許され、参議に至る。 といった解説をしているものもありますね。
小野篁が遣唐副使として、派遣されたのは、承和3年・承和4年に派遣予定されるが2度とも失敗し、3度目に成功するが、病気と称して行かなかった。副使を残したまま、三度目出発、承和5年(838年)と帰国承和6年(839年)しているが、どうもこの遣唐使というのは、4隻で、総勢400人が派遣されているようだが、成功率が低く、ようやく渡れても、帰りも漂着に近いような有様で、この三度目の渡航の帰りも、新羅船を9隻も雇い入れて(定員の都合があったのだろうか)も、南海の地にいってしまったものとか、当時の人は任務とはいえ、命がけだったのですね。

2009年1月10日土曜日

真言宗御室派準別格本山 篁山普陀洛院竹林寺 新年登山

「真言宗御室派篁山普陀洛院竹林寺」
平成21年1月8日(木) 東広島郷土史研究会恒例の新年登山が行われました。 朝9時に集合し9台の車で竹林寺参拝登山口の駐車場まで向かいます。
30分ほど整備された参道を歩 き、竹林寺を目指します。
途中参道は、きれいに整備され、一帯が公園として、散歩道として多くの市民の利用があることがよく感じられます。
すがすがしい、初登山にふさわしいコースです。
運動不足もあり、既に最初の一歩からぜいぜい言っていましたが、一緒に歩いて下さっている郷土史研究会の皆さんの励ましで、なんとか山門までたどり着きました。感謝でいっぱいです。この参道は、山の尾根を伝っていくようになっているのですが、途中多少のアップダウンがあり、上り一辺倒でないことが幸いしてか、多少のくだりで、息を整えることができたように感じました。登るうちに息も最初ほど苦しくなくなり、山門についたころは、いくらか平静さを取り戻した感じでした。

山門の手前に、小野篁生誕之地の碑が建てられていました。
縁起から抜粋した。竹林寺の創建から冥界の篁の事まで書かれています。







ようやく山門に着き、2体の金剛力士像にお目にかかります。おなじみ、右が阿形、左が吽形です。惜しくも平成3年の台風19号でにより山門ごと倒壊し大きな被害を受けた。その後山門と共に修復され現在に至る。山門や仁王像が、新しく感じるのはそのためです。










これから、山門をくぐって境内へと進みます。
天平2年(730)行基の開創による桜山花王寺が、竹林寺の始まりです。
太鼓橋は、境内の池にかかっています。一年中かれることのない、山上の池です。
太鼓橋を渡り、正面には、永正8年(1511)の創建の重要文化財指定の本堂(本尊千手観音)を初め、護摩堂、十王堂、そして篁をまつる篁堂などが、建ちならびます。
本堂左には、護摩堂(東広島市重要文化財)不動明王を本尊としています。
本堂右には、十王堂があり、冥土の十王尊像があり、冥土に戻った篁は100年後僧の姿で、ふるさとの花王寺を訪れ、九体を刻み、一体は自ら生身の像となられたという。

境内には、名井家12代名井光叶の宝篋印塔、7重層の石塔が立てられています。
他にも境内いたるところに、墓と思われるものがいたるところにある。供養のために造られたのか?
全員が、揃ったところで、ご住職様から竹林寺の縁起にまつわる貴重なお話をお聞きしました。

文化財の解説 デジタル図書館広島大学 縁起絵巻など

この寺にあった三重塔があり、維持管理の問題で、解体された部材を当時の住職が売却、大正14年藤田平八郎によって椿山荘に移築。現在目白台の椿山荘に移築されている。内部は2階以上が大幅に改修され、創建当時をしのぶことは出来ない。


ここに、三重之塔の画像、照会多数有り。

椿山荘は元山形有朋の別邸で、後に藤田伝三郎男爵の所有となり、多くの文化財及の建物が移築されたが震災で消失、三重塔は奇跡的に焼け残った。







本堂裏手には、今回調査して判明したが、胸周4mを超える、アラカシとツバキが存在することがわかった。またカエデの巨樹なども存在し、改めてご紹介いたします。
7重層石塔と宝篋印塔 名井家名井光叶の墓