小野篁は、現在の東広島市河内町入野に、生まれる。
山陽本線のガード下に小野篁の産湯川神社、産湯池跡の案内板が地元の郷土史研究会の方の手によって立てられている。ガードをくぐり、産湯川のほとりをまっすぐ200M行くと右手に墓地が見えその右に祠が見える(見えるのは実際には、鞘堂で、その中に祠が安置されている。)さらに右手に、茂みがあり玉垣で囲まれた窪地があり、そこが小野篁の産湯池跡という、石碑が建てられている。
玉垣に囲まれた中心が、産湯池跡
地元、竹田村の八千代という女性が、子供がほしいと
千日満願をたて、竹林寺の前身の「桜山花王寺」に千日、通い続けた千日目満願の日の夜半お堂の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は802年(延歴二十一年)の春、男子を出産したが、その子が自ら「吾はこれ篁なり」と名乗った。八千代は不思議に思いながらよろこんで養育につとめたところ、幼時よりよりまことに聡明で竹野辺殿にいつくしまれたという。(小野篁解説板より)その生誕の地、産湯池跡が残る。そばには産湯川神社がある。
「篁山竹林寺縁起掛絵」には、八千代は、「時は5月半ば、寺からの帰りに竹田村の竹林を通りかかった八千代は俄に戯れ心を起こして、生え出ていた竹の子に嫁ぎを為し、和歌一首を詠んで別れた。「短夜の名残ぞ惜しきしののめのさがなきことを人に語るな」。」とある。下の解説板は近くの竹林寺にあるもの。
竹林寺参道下に、生誕の地の碑と、解説板が立てられている。竹野辺秀職に使える八千代という女性が千日満願によって授かったとあり、生まれたとき、「われはこれ篁なり」と、いったとか・・・御釈迦様みたいな話ですね。
12歳で京にのぼり、さらに学芸・詩歌に励み、西三条関白小野大臣良相の娘と結婚し、小野を継ぎ、小野篁とこのときよりなった。嵯峨天皇に使え、参議太夫に登用され、文章博士任ぜられる。
山陽本線のガード下に小野篁の産湯川神社、産湯池跡の案内板が地元の郷土史研究会の方の手によって立てられている。ガードをくぐり、産湯川のほとりをまっすぐ200M行くと右手に墓地が見えその右に祠が見える(見えるのは実際には、鞘堂で、その中に祠が安置されている。)さらに右手に、茂みがあり玉垣で囲まれた窪地があり、そこが小野篁の産湯池跡という、石碑が建てられている。
広島大学附属図書館デジタル図書館
竹の子のくだりは、後世書き加えられたものとの説がある。
・・・・なんだかキリスト生誕や、お釈迦様の生誕に竹取物語まで加わったような話ですね。いろいろと伝説やら物語やらというのは、書き写せば書き写すたびに面白く、さらにもっと聖人・偉人らしいようなエピソードをいろんなところから、書き写してだんだんと長い文章になっていく傾向にあるようですね。
産湯池跡横には
石碑も建てられていて、その向こうには玉垣寄進の石碑。
産湯池跡横には
石碑も建てられていて、その向こうには玉垣寄進の石碑。
玉垣に囲まれた中心が、産湯池跡
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首11番)
古今集巻九(羇旅)
「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける 小野たかむらの朝臣
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(古今集)
思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人のなはたきいさりせむとは(古今集)
しかりとて背かれなくに事しあればまづ嘆かれぬあなう世の中(古今集)
文章生・東宮学士などを経て、仁明天皇代、遣唐副使に任命された。大使藤原常嗣の理不尽な要求に反発し、大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて隠岐に遠流された。「わたの原…」の歌もその時の作。のち、帰京を許され、参議に至る。 といった解説をしているものもありますね。
小野篁が遣唐副使として、派遣されたのは、承和3年・承和4年に派遣予定されるが2度とも失敗し、3度目に成功するが、病気と称して行かなかった。副使を残したまま、三度目出発、承和5年(838年)と帰国承和6年(839年)しているが、どうもこの遣唐使というのは、4隻で、総勢400人が派遣されているようだが、成功率が低く、ようやく渡れても、帰りも漂着に近いような有様で、この三度目の渡航の帰りも、新羅船を9隻も雇い入れて(定員の都合があったのだろうか)も、南海の地にいってしまったものとか、当時の人は任務とはいえ、命がけだったのですね。
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