2011年1月10日月曜日

白鳥山(高屋町)平成23年新春登山・新年互礼会

東広島郷土史研究会の恒例行事です。
平成23年1月6日(木)、東広島市高屋町郷の白鳥山(しらとりやま)へ、恒例の新春登山いたしました。
9時に東広島市役所に集合し、車で白鳥神社参道入り口に向かう。
9時35分 徒歩で登山開始
10時15分、白鳥山にある白鳥神社を見学し
10時45分、白鳥山下山

白鳥山には、白鳥神社と白鳥古墳がある。高屋の名は古代朝廷の屯倉(みやけ)があったところから発生したといわれ、当地を統一するためにこの地方に入った人を高屋連と呼び、当地の白鳥伝説にまつわる人の墳墓が、白鳥古墳であると考えられている。
おそらく、朝廷権力に連なる役人で当地方統率役で有力者であったと推測される。

【白鳥神社】しらとりじんじゃ
東広島市史跡 東広島市高屋町大字郷 指定:昭和53年(1978)11月15日
祭神:日本武尊

 当社は高屋町大字郷の南に位置する標高453mの山頂に建てられている。当地北側の字宮領は、当社の社領であったことから、この名が付けられたと伝えられている。
 往時は格式高い大社で楽音寺古神名帳に二位白鳥神社と記録されており、山の麓にある寺跡はかつて別当寺があったという。この神社は白鳥古墳の上に建てられている。

《白鳥神社由来碑》
 日本武尊主神として十神をお祭りする旧賀茂郡社で、伝記に因ると、日本武尊が死後白鳥となって飛翔し、当山頂まで来て姿を消したとか。鎌倉時代の神名帳に、白鳥明神を旧賀茂郡で最高位と。又、平賀家旧記に、天文12(1543)年、平賀弘保・隆宗が社殿を造営した由の棟札。写し納め。又、同旧記に、天正6(1578)年祭礼事書には、当社の三度の大祭の内9月9日鳥居原御幸の神事に平賀弘保が干渉して、古例を曲げようとしたが、馬で当社に向かった弘保の使者桂孫太郎が転落死したため干渉を止め、祭礼に名代として近習一人・家老一人を社参させる事とし、積極的に祭礼を援助したと。平賀家から祈祷銭十貫、梨羽氏入野村・東村の両家老衆の所領などから合わせて25貫文が社家方・社僧方に納められた。他に、3月15日6月15日の旧暦が大祭とされた。溝口の神宮寺・善仏寺・大福寺 郷の十楽寺等は当社の別当寺と伝えられている。

 何時の日か火災にあい消失し、明治40年(1907)年県知事の許可により、3市12郡より寄付金を募集し、再建された由。その時1.5mの土地を削ったら、その土地は古墳であったらしく、そこから大小の三角縁神獣鏡・太刀・埴輪等が出土し、現在でもその破片を見ることができます。
 
《白鳥神社縁起》
 景行天皇の頃、日本武尊が伊勢の国で死去しその遺骸を納めた棺の中から一羽の白い鳥が飛び立ち、大和、河内、讃岐の各国をめぐって、最後にこの安芸の国高屋のこの山頂で姿をけしたとの伝説が残されている。現在も郷土の人々の崇拝の念は高く、参拝者もあとを絶たない。

【白鳥古墳】
 当古墳は明治43年(1910)に白鳥神社社殿造営が行われたとき。破壊されているので。古墳の形態。規模。構造は明確でないが、墳墓の周囲は埴輪をめぐらしており内部主体は竪穴式古墳又は箱式石棺と推測される。
 社殿造営当時この古墳から、三角縁神獣2面、碧玉製勾玉1個、素環頭太刀1振が出土している。これらの副葬品から4~5世紀頃のものと推定されている。
ちなみに、三角縁神獣など、出土品は、東広島市西条中央にある中央図書館に併設された、三ッ城古墳ガイダンスコーナーに三ッ城古墳出土品とともに、展示されている。


記念写真を撮影の後帰路につく
登山だけの参加、互礼会だけの参加と、会員それぞれの都合に合わせての参加となる。

12時30分 西条のちろりんタウンで、新年互礼会開始


会場では、新会員からの自己紹介、それぞれ新年の抱負などが語られた。会員各位それぞれテーマも持ち研究されているそういった紹介もあった。
14時30分 散会