2009年11月8日日曜日

第31回平成21年度 広島県郷土史研究協議会 東広島地方大会開催される

第31回平成21年度 広島県郷土史研究協議会 東広島地方大会開催される。
平成21年11月7日土曜日午前9時30分から、出席者:300名、東広島市中央公民館大ホールに於いて、広島県郷土史研究協議会主催の総会および、研究発表が行われた。来賓の蔵田義男東広島市長、木村清東広島市教育長から、日頃の郷土史研究の重要さと活動に対する感謝と励ましのお言葉を述べられました。
そのあと、会計報告収支報告がおこなわれ承認された。引き続き三氏から研究発表が行われた。
(1)「菖蒲前伝説」と題して、東広島郷土史研究会の井東茂夫副会長が伝説の紹介と、その伝説の成り立ちについて、新しい切り口で発表。
(2)「三次盆地の弥生墓」と題して、三次地方史研究会の加藤光臣氏が、四隅突出方形墓と山陰地方との関連性などを詳しく発表。
(3)「くじらの文化人類学」と題して福山城博物館友の会の宮本住逸氏が、瀬戸内の伝統的くじら漁の解説とアメリカの蒸気捕鯨船による乱獲による、伝統くじら漁の衰退など、詳しく発表。
 開会行事後、午後からの臨地見学地、安芸国分寺の紹介を、妹尾周三 東広島市教育委員会生涯学習部文化課課長補佐から、発掘当時の内容や、出土品など見学のポイントなど説明。
見学地までの案内は、東広島ボランティアガイドの会の協力で、酒蔵通りを案内しながら、国分寺へと向かった。
聖武天皇の国分寺建立の詔は、797年に編纂された「続日本紀」 に書かれた内容によると。
「国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、大般若経の写経を命じた。諸国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部づつ写すようにするものとしたい。朕は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納める。」とされました。これは、金光明最勝王経の内容が「この経典を広める王があれば、四天王が常に守護し。病や憂いを癒し、願いをことごとく叶え、喜びをもたらす」と説くからでした。
【仁王門】(附:祈祷札22枚)平成11年2月18日東広島市重要文化財指定
間口三間、奥行二間の八脚門(はっきゃくもん)、両脇には仁王像が安置されている。柱は全て円柱で、上に舟肘木(ふなひじき)を載せた簡素なものです。
 現在の屋根は、桟瓦葺き(さんがわらぶき)ですが、当初は茅葺き(かやぶき)か杮葺き(こけらぶき)であったと考えられています。棟の祈祷札に、天文12年(1543年)の銘があり、中世の仁王門としては、広島県下で、唯一のものです。 祈祷札には、「仁王堂」と書かれたものがあり、中世には、仁王門を仁王堂と呼んでいたようです。全体に朱が塗られていたようで、現在もその痕跡は全体に見ることが出来ます。
 仁王像は、仏像の研究者によると、鎌倉時代頃ではないかと推定されています。 この仁王像の存在からすると、仁王門は立て替えられたり、修理をされてきたようです。
仁王門をくぐり、石畳の正面は、一段あがり境内へ正面は、金堂跡に建てられた、現在の国分寺の本堂で、平成16年に建てられたものです。

【護摩堂】東広島市重要文化財指定  平成11年2月18日
建築年代は18世紀後期から19世紀初期と考えられます。この地域最大の護摩堂です。
建物は唐様(今は禅宗様と呼ばれる)と、和様の折衷です。
規模、正面三間(南北5.9m)、奥行二間(東西6.9m)です。


この護摩堂では、広島藩主の病気平癒や武運長久を祈願していたため、浅野家の「違鷹羽紋」(ちがいたかのはもん)が取り付けられています。(向拝と、建物内部、本尊の上にある来迎壁)
江戸時代広島藩主となった、福島・浅野両氏はこの寺院を藩の祈祷所と位置づけ、宝暦7年(1757)に白市の豪商、木原保満(きはらやすま)が主要な建物を修造しました。ところが宝暦9年(1759)4月に仁王門を残し伽藍全体が消失しました。護摩堂の不動明王立像は助かりましたが、本堂の薬師如来坐像は頭だけ残し、薬師堂の薬師如来坐像は全身が炭化してしまったのです。多くの建物はその年再建されたのです。
本尊は「不動明王立像」(ふどうみょうおうりつぞう)で、室町時代のものといわれています。
堂内中央に設けられた祭壇で護摩木を燃やして本尊の不動明王に無病息災などの祈願、修法をしています。




【薬師堂】
本尊は薬師如来坐像で、製作年代は、平安中期頃と考えられています。昭和60年広島県重要文化財に指定
ヒノキの寄木造り、半丈六坐像(2.4mの半分の坐像)127.6cm
あります。

少なくとも2度火災に遭っており、炭化した焼痕があります。平成18年の保存修理が行われ、最初の火災後に脚部の補足した部分の修理が行われていますが、宝暦9年(1759)に再び火災に遭っており、明和5年(1768)に光背や台座が新たに造られ、仏像の本体は紙貼りによる修理が行われたことが判り ました。平成18年の修理でも炭化層を保護するため和紙を貼って復元されました。このような修理が江戸時代に行われていた例は他には知られていません。

【本堂】平成16年に建てられました。
内部の厨子には本尊の薬師如来坐像が納められています。




【金堂跡】
本堂の建てられているところは、創建当時金堂が建てられていたところです。
東西約33.4m×南北約21.4mの基壇が確認されています。
礎石は失われていますが、他国の国分寺金堂の例から7間4間の建物であったことが考えられます。


中央の厨子には本尊が安置されています。33年に一度開帳されます。頭部に平安時代前期の特徴があります。宝暦9年の火災で頭部のみ持ち出され体部は焼失したため、翌年には京都の仏師が作っています。このとき体に合わせて、頬が削り取られ現在の面長の顔立ちになったようです。頭部の螺髪も眉なども焼けた跡が残っています。神護寺の薬師如来立像の顔立ちと元の顔立ちは似ていると、公民館での紹介では発表され、そのまま残されていれば、国宝になっているかも知れないとのこと。現在は東広島市重要文化財に指定されています。

【講堂跡】
金堂の裏手の森に、講堂の跡があります。
僧が経典や作法を学ぶための建物です。
東西30.6m×南北17.4mの基壇上にある正面7間×奥行4間の入母屋造りの建物です。 12世紀には講堂も廃絶しています。

左が、僧房、右が講堂、その間をつなぐ軒廊です。
背面の出入口には 僧房との間に屋根の付いた廊下、軒廊(こんろう)とつながっていました。 軒廊があるのは、格式の高さを示すものです。
礎石は復元されていますが、2個のみのこされていました。

【僧房と軒廊】
軒廊は、幅6.5m×長さ8.5m、礎石のあるところが柱の中心です。
僧房は、僧侶の住居で東西5.6m×南北12.75mの基壇の上に切妻造りの建物で、写真の図は右に同じ幅がありました。僧侶の数は20人と決まっていました。
屋根瓦が出土していませんので、板葺きであったと考えられます。
僧房と軒廊は、10世紀中頃には消失したことが、発掘調査で判っていて、講堂の西側に新たに小規模のものが建てられています。

僧房の東端部、砂利は雨落ち溝を示しています。
この写真の右奥には板塀で囲まれた国師院跡が発見されました。
国ごとに法会を行ったり国内を巡り僧侶の育成、指導をする僧侶の役人のことです。国師院は国師の住む建物で、後に国師は講師(こうじ)と改められ(法律が変わった)更に東北の位置に、講師院(こうじいん)が発見されています。 そのほか大衆院(だいしゅういん)と呼ばれる台所や事務、施設の維持管理をする役目をする建物もあり、この地域の当時のハイテクが全て維持された建物であったと考えられています。

【安芸国分寺塔跡】
聖武天皇の詔で、金字の金光明最勝王経を納めた七重塔が建てられていたといわれています。現在の塔跡は12m四方ですが、周囲の発掘を進めたところ、16m四方の基礎が存在することがわかり、火災で西に倒れたと伝える記録が確認され、大量の瓦が発見されました。
 この地は、高さが聖武天皇陵であるとか、玉歯が埋められているとか、いった五輪塔が建っており、昭和7年(1932)の発掘調査で礎石が発見され塔跡であることが、確認されました。昭和11年(1936)、国史跡に指定されました。
安芸国分寺は史跡公園として発掘され、保存整備されますが、仁王門の先に南大門や、さらに南に寺域が広がっており、多くの発見がなされています。
見学が終わり、中央公民館で流れ解散となりました。来年度は、三次が開催地となっています。

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