松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 - 1992年8月4日)生誕100年になる。
本名は、清張を「きよはる」と読む。
生まれは、広島市とされているが、小倉北区(旧福岡県企救郡板櫃村)であるともいわれる。
父・松本峯太郎が、鳥取県の出身で、青年期に広島市に出る。旧賀茂郡志和村出身の母・岡田タニが 広島の紡績工場で働いていたときに知り合い結婚したという。清張は1909年12月21日、広島市で生まれ 、その後、日露戦争の景気で沸く福岡県企救郡板櫃村に移ったようだ。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
半生の記 (1966年、河出書房新社)の中に、その辺のくだりが書かれている。
松本清張は、瀬野駅から八本松駅へと向かう列車の中から、志和出身の母のことを思い出すように述べている。
この著書は 「濁った、暗い半生であった」と書かれているように、成功するまでの半生を綴った自叙伝のようなもので、清張文学を読まれる上で、名作に隠れた、名著であると思う。
これまで、小倉生まれと書いていたものを、本当の出身を広島市と記した最初のものである。
興味をもたれた方は、松本清張を知るためにも、一度読まれるとよいと思う。
追記
母の故郷には一度、広島の講演の合間にタクシーで来て風景を眺めたそうです。
広島市郷土資料館だよりに
http://www.cf.city.hiroshima.jp/kyodo/html/10tayori/tayori801.pdf
昭和51年3月、清張は一度だけ母親
の郷里である現東広島市志和町を訪ね
ています。墓も生家も分からずじまい
でしたが、清張はあぜ道に座り、しば
らくの間、春の訪れを待つ山河を眺め
ていたそうです。と書かれている。
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