平成20年12月14日(日)午後1時半より、JR西条駅北側御建神社参道前・教善寺前の「御建遺跡」の見学会が行われた。今回は戦国時代の中世山陽道と思われる道の跡が発見されたというもの。この地は周囲が安芸国分寺や、秀吉が九州出兵(島津攻め)のため、宿泊した旦過寺(たんがじ)跡もあり、さらに、一直線上には、寺家の上道(じけのうわみち)と呼ばれる、古代山陽道(奈良時代)の推定コースに向かっており、出土した陶器の破片などから、戦国時代の山陽道ではないかと思われる道の跡です。
御建神社の参道前、教善寺の門前に、一号遺跡がある。ここからは、一段深くなっているところが、次の2号遺跡にぴったりとルート的には適合していて、山陽本線線路に向かって道が伸びているように思える。・・・・山陽本線の下に山陽道があるのだろうか?
御建神社の参道前、教善寺の門前に、一号遺跡がある。ここからは、一段深くなっているところが、次の2号遺跡にぴったりとルート的には適合していて、山陽本線線路に向かって道が伸びているように思える。・・・・山陽本線の下に山陽道があるのだろうか?
コンクリートの基礎により、遺跡はあらされているのが、まことに残念。この道の後からは、廃止されてから、陶器の破片など、捨てられ、その陶片から、年代がわかるのである。
ここからは、素焼きの茶釜、古い時代の備前焼(焼きしめ以前の土師器に近いもの)李朝の青磁など出土している。
こういった陶片から想像されることは、
この一帯にはそれなりの結構裕福な人が住んでいたことが想像できる。
近くの〔旦過寺〕には、たぬき和尚の話が伝えられていて、茶釜と狸和尚がなんだか、頭の中でくっついて、文福茶釜を想像してしまいました。
〔中世山陽道跡〕
二つ目の遺跡には、はっきりと中世山陽道の姿が、現れています。
土の黒いところは、田んぼの肥え土で、昭和まで、耕作が続けられていました。田んぼが江戸時代初期から現代まで耕作が続いていたと思うとなんだか、すごい気がします。
2メートル幅の道の両側に排水溝らしき跡も見られ、両脇の地山を掘り込んで道に整備したものと思われる。遺跡の上の黒い土の層は、水田の跡で、これは、現代まで水田として使われています。さらにその上に真砂土が埋められたのは現代の地層です。住宅が造成地に建てられていました。見学にこられた近所の方は、水田があったことは覚えておられました。
旦過寺とは、主要道路沿いに、修行僧が、修行旅の途中に宿泊する施設で、全国に同様の名前があるのは、そのためで、旦とは、元旦の旦で、水平線に上る太陽を現し、朝という意味の字です。過とは、過ぎること、朝には旅立つことを旦過といいます。丘陵地を下ってくる道を、島津家久が四日市に入り白山城が見えると記述しており、たしかにこの道をくだっていくと、左手に低い白山城がみえるので、たしかにここを通ったのだろうと、創造ができるのです。慶長には、四日市の町並みの縄張りがなされた記録から、この道が機能しなくなり、移っていったことが推測されます。さて、古代の12メートル幅の山陽道はどこにあるのか?実は直線性を重視されていたゆえにさらに、その上の下の山ろく上をわずかに切り通し、開通しても崩れたり、けずられたりし、次第に切り通され水平に近くなり痕跡が中世のみちまできり下がり、古代に立てられた神社などが、切りとおしの上に取り残されたり痕跡が延長上には残されていたりします。西条でこういった山陽道の跡が出土することは意義があり、今後の発掘が楽しみです。
旦過寺は、室町末期(戦国)天正15(1587)年、島津との戦いのため九州へ向かっていた豊臣秀吉が3月15日に宿泊したと、記録に残されています。
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